「組織の経済分析」とはいかなるものか

伊藤秀史 (『別冊宝島373 経営学・入門』宝島社1998年掲載)

私は商学部経営学科の出身である.卒業後そのまま同じ学科の大学院に進学し,留学して米国のビジネス・スクールで博士号を取得した.このような学歴で現在学者をやっていると聞けば,素直な人は私の専攻は経営学だと予想するだろう.自然な発想である.しかも私の主な研究対象は企業組織――コーポレート・ガバナンス,人事制度,組織構造など――ときている.にもかかわらず,私は経営学者と分類されることはめったになく,圧倒的頻度で経済学者とみなされている(らしい,というのは「私は経済学者でしょうか経営学者でしょうか」という問いを,経済学者・経営学者に投げかけたことがない).確かに経済学者との付き合いの方がずっと多いし,主要な業績は経済学の学術雑誌に掲載されている.経済学部で教育を受けたこともなく経済学の学位も持たないのだが.

「なぜ経営学出身でありながら経済学者としてのスタンスをとっているのか.」これが私に与えられたテーマである.細かいことにこだわると,「経営学出身」というのはちょっと正確さに欠けていて,商学部経営学科とビジネス・スクールを出ているとはいえ,私の教育上のバックグラウンドは7対3位で経済学優勢である.「経営学出身」などというと経営学者に怒られそうである.一方「経済学者としてのスタンス」これがまたいろいろややこしい.私個人としてはこのような言い回しで自分を表現してよいと思っているが,経済学者の多くは,私の見方を「経済学者としてのスタンス」とは呼ばないかもしれない.このあたりのややこしい関係について説明するのが,このエッセイのテーマである.

最初に結論を書けば,経営学と経済学を区別するものは分析方法・アプローチだけだと私は思っている.経営学が研究対象とするものを経済学も研究対象とするが,その方法が違うだけである.私が「経営学出身」といいがたいのは,私の教育バックグラウンドが,通常の経営学者よりも,ずっと経済学のアプローチに偏っているからである.また経済学者の多くは,経済学の究極の対象は個々の企業組織よりはむしろ国民経済・国際経済,というスタンスのようである.私のように「企業組織についての理解が深まればそれでよい」と考える経済学者はあまりいない.

かつては経済学と経営学の相違は明確だった.研究対象がはっきり異なっていたからである.経営学の研究対象は経営 (マネジメント) という現象にある.しかし経済学は長い間マネジメントを研究対象としてこなかった.この主張には2種類の意味がある.第一に,伝統的な(新古典派)経済学が主に対象とした「完全競争市場」の世界では,利己的に行動する家計や企業といった経済主体の自由放任が,アダム・スミスの「見えざる手」を通して,また社会的にも望ましい(効率的な)状態に導くという関係が成立していた.したがって,どのようにして人々の意思決定や行動を望ましい方向に導けばよいかという問題の解答は,やや誇張して言えば「競争的な市場に委ねておけばよい」つまり「マネジメントしない」というものであった.第二に,経営学でもっともよく研究されている経営主体である「企業」と,伝統的な経済学に登場する「企業」との間の違いである.「スタンダードなミクロ経済学における企業はブラック・ボックスだ」という指摘を聞いたことがある読者がいるかもしれない.つまり企業は,資本,労働力などのさまざまなインプットを放り込むと,アウトプットとして製品やサービスを吐き出す機械のようなものとして扱われている.そこではブラック・ボックスの内部で経営者・従業員がどのように関わりあってインプットからアウトプットへの変換を行っているのかは,何も記述されていない.すなわち「マネジメント」は言及されていないのである.別の見方をすれば,この企業という機械は非常に優秀な経営を行っているものとみなされている.すなわち,企業は常に最小費用・最大利益を達成する効率的な組織と仮定されている.もちろんそのような理想がどのようなマネジメントによって成し遂げられているのかについては,沈黙を守ったままなのだが.要するに企業とは単なる一決定主体として捉えられており,個々に意思決定をする人々の集まり,すなわち組織としての側面は捨象されていたのである.

このようにかつての経済学のメインストリームと経営学は,その研究対象がはっきりと違っていた.しかし80年代以降,経済学者によるブラック・ボックスを開ける試みが急激に進展した.それを象徴する2,3の出来事を挙げてみると...

  1. 伝統的には市場の中の質点でしかなかった企業を,市場と対比させ,市場と同様にさまざまな人々の交わる場であるが市場とは異なるルールで機能する資源配分メカニズムとみなして,共通の経済学の枠組みで分析する可能性を示唆したコース (Ronald H. Coase) が,1991年にノーベル経済学賞を受賞した.コースの古典的論文 (``The Nature of the Firm,'' Economica 4 (1937), 386--405) は1937年に出版されたが,彼がノーベル賞を受賞したのは,その後,とりわけ80年代以降に彼の論文を出発点とする研究が爆発的に増え,大きな成果をもたらしたからである.
  2. 最新の経済学の入門書であるスティグリッツ (Joseph E. Stiglitz) の『ミクロ経済学』(Economics. W.W.Norton, 1993.邦訳は東洋経済新報社) を開いてみよう.「見えざる手」が理想的な状態に導く完全競争市場よりも,「見える手」が必要な不完全市場の分析に割かれるページ数の方が多くなり,最新の経済学の基本原理に基づいて企業組織や企業経営のさまざまな問題が分析されていることを発見するだろう.
  3. 最近ミルグロム (Paul Milgrom) とロバーツ (John Roberts) の著書の翻訳『組織の経済学』(Economics, Organization and Management. Prentice-Hall, 1992. 邦訳はNTT出版) が出版された.原著が1992年に出版されたこの本は,組織構造,人事政策,資本構成,コーポレート・ガバナンス,企業の境界,といった諸問題を,一貫して最新の経済理論によって分析する教科書で,米国の大学の経済学部やビジネス・スクールで用いられている.

経済学者による組織の分析を「組織の経済学」と呼ぶならば,組織の経済学は企業を単一の意思決定主体というよりもむしろ,さまざまな意思決定の集まりという意味での「ごみ箱」のようなものとみなす方向に修正した (経営学者以外にはここで「ごみ箱」が出てくる意味が分からないだろう.経営学者にはもちろんおなじみのマーチ (James March) ほかによる「ごみ箱モデル」を意図している.Michael Cohen, James March and Johan Olsen, ``A Garbage Can Model of Organizational Choice,'' Administrative Science Quarterly 17, 1972).企業が人々の集まりならば,経営することが本質的な問題となる.こうして経済学において組織の「マネジメント」の研究が盛んになり,競争市場のみならず階層的な組織,継続的取引などの多様な慣行が分析されるようになると,経済学を分析対象から経営学と区別することがあいまいになってきた.むしろ経済学 (とりわけ基礎理論としてのミクロ経済学) の分析方法の側面に注目した方がよい.

経済学は人間の意思決定のための理論の側面をもっている.意思決定というのは選択することである.多くの可能な選択肢の中からどれを選ぶかという問題である.消費者も企業の経営者も従業員も政府の官僚も皆さまざまな意思決定問題に直面している.それらの主体の意思決定の分析が経済学の本質であり,その意思決定を分析するためのアプローチの独自性に分析方法の特徴がある.それはひとことでいえば「合理的意思決定の理論」とよばれるもので,学問分野としての経済学を他の社会科学分野から分かつものは,その取り扱う対象にではなく,そのアプローチにある.そしてそのアプローチを分析対象から切り離し,さまざまな問題に適用することによって,この理論は経済学の応用可能性を豊かなものとしてきたのである.

したがって,組織のマネジメントを経済学的に分析する,ということは,必然的に一貫して組織を構成する個人については合理的意思決定のアプローチに従う,ということになる.これを批判的に表現すれば,組織の経済分析は方法論的に不寛容ということになるかもしれない.経営学は経済学よりもどちらかといえば社会学・心理学のアプローチを利用する方が多いと思うが,さらに人間観についてそれらの方法論に縛られない柔軟性をもっている.この面での相違は,一見経営学の方が優れているという印象を与えるかもしれないが,それほど明白なものではない.一貫した(しかも高性能な)分析方法に固執することのメリットも大きい.というのは,個人レベルでの「かたくなさ」が組織レベルでの柔軟性,バランス感覚を生みだすからである.多様なマネジメントの費用と便益をそれぞれきちんと把握するのは,微妙な,難しい問題である.しかし個人レベルではアプローチを絞っているので,組織レベルでの費用便益の理解を注意深く勝つ偏りなく行うことができ,分析が明解になる.逆に個人レベルでの分析の柔軟性は,各マネジメントの問題について,研究者の見方に都合のよい人間観に根ざしてしまい,組織の分析をあいまいなものにしてしまいがちである.少なくとも私が経済学的分析にこだわる理由は,このような組織レベルでのアプローチの切り口の鋭さ,爽快さにある.

また著名な経営学者である加護野忠男氏は次のように述べている.「経営学では,問題の性質から,面接調査,質問票調査,観察,ケース分析など,切り口の鈍い方法を使わなければならないことがある.このような方法論を許容できなくなってしまうとすれば,それは経済学にとっても深刻な問題である.」(``「鋭い刃物」が切り残すもの'' 『経済セミナー』1997年2月号,17ページ) 少なくとも組織の経済分析にとっては「心配御無用」である.マクロ経済の分析ならいざ知らず,企業組織を分析対象とする限り,分析アプローチに関わらずこれらの方法に頼らざるを得なくなる.組織の経済分析を経営学を分かつものは,このような具体的な実証方法ではなく,人間の意思決定の理論にあることを再度強調しておきたい.

もちろん合理的意思決定のアプローチに対する批判も腐るほどある.私はこのアプローチを擁護したい気持ちでいっぱいであるが,むしろここでは認知論や社会心理学の成果を取り入れてこのアプローチ自体さえ修正しようという試みが,経済学で近年行われつつあることを指摘しておきたい (一例を挙げればMatthew Rabin, ``Incorporating Fairness into Game Theory and Economics,'' American Economic Review 83, 1993).確固たる分析方法をもつがゆえにできるシステマティックな軌道修正もまたこのアプローチの魅力であろう.