権限委譲の経済学

伊藤秀史 (日本経済新聞「やさしい経済学」1999年9月30日~10月7日)

 カンパニー制,執行役員制度,純粋持株会社など,今日も組織形態の選択の話題に事欠かない.これらの組織形態を導入する目的のひとつは,「戦略と事業の分離」にある.カンパニーの長,執行役員,子会社に事業遂行上の大幅な権限を与え,本社,他の取締役,持株会社は全社的な戦略策定に集中する,というわけだ.いいかえれば,これらの組織形態は事業遂行に関する決定権を組織下部に分散させる分権化の方法であり,組織内での権限委譲を促進する.  多角化する大会社の多くが採用する事業部制組織も,もともと同様の目的のために20世紀前半に米国で生み出されたイノベーションだった.企業の業務の多角化が進むにつれ,集権的な職能別組織の問題が顕在化し,分権的な事業部制組織への移行が進んだ.日本でも1933年に松下電器が製品別事業部制を採用した.松下幸之助は「新しく事業が追加されるにつれ,すべて同じようにみることができなくなり,製品別に全部任せるように」なった,といういきさつである.まさに権限委譲が本質である.

 権限委譲はビジネスの世界に限られる現象ではない.数年来議論が続けられている地方分権推進には,政府が権限を握る事務を地方公共団体が独自に,ないしは政府から受託して行う事務へと再整理するという側面がある.つまり中央政府から地方政府への権限の委譲に関する問題である.もっと卑近な例として子供の教育がある.親が子供にいつ,何についての権利をどの程度与えるのかを決めることは,子供の教育の大きな割合を占めるように思われる.

 伝統的な経済学は,中央計画のない,意思決定が個々の消費者や企業に任されたきわめて分権的な市場が,価格を媒介としてうまく機能することを研究してきた.そして価格システムは,事業部間の移転価格のように内部組織でも利用されることがある.しかし,価格による分権的なシステムがうまく機能するような状況は限られている.

 市場に変わるシステムとしての組織への経済学的アプローチは,ノーベル経済学章を受賞したサイモンやコースの研究にさかのぼる.彼らにとって権限関係は企業組織の本質であった.しかし,組織内部での権限委譲についての研究成果が蓄積されてきたのはごく最近のことである.

 この連載では,古くから経営学の主題のひとつであり,その重要性は今日でも変わっていない「権限委譲の進め方」について,最近の経済学での成果に基づいて迫ってみよう.鍵となる概念は「インセンティブ (誘因)」である.決定を委ねる側,委ねられる側はそれぞれ自分の利害にしたがって行動する.その行動の帰結に焦点を当てることによって,権限委譲の利点,問題点,対処法に新たな光を当てることができる.

 権限とは,許容された決定の集合から特定の決定を選択する権利である.たとえば長期的な雇用を前提とした正規従業員の雇用関係を考えてみよう.労働者が雇用主と労働契約を結び雇用関係に入るということは,事前に定められた報酬と引き換えに,法律・判例・慣習などで限定された範囲内で雇用主の指揮命令を受け入れることに同意すること,と理解される.

 この定義は雇用関係の2種類の特徴を指摘している.第1に,従業員の義務は雇用関係に入る時点では完全には特定化されていない.この特徴は,たとえば特定の機械を100台,1台あたりの価格100万円で購入する,という売買契約と対照的である.特定の職務のために採用される臨時や派遣の労働者のケースは,このような売買契約に近い.しかしある程度長期的に雇用関係が継続すると双方が予想している状況で,その間に起こりうる事態をあらかじめにすべて予想して,それぞれの事態に応じて従業員の義務をはっきりさせることに費やす時間とエネルギーはあまりに大きすぎる.こうして不完全であいまいな契約が主流となる.

 第2に,従業員の義務を後で決める権利は雇用主の側にある.雇用主は従業員に対する人事権,指揮命令権などを有しており,従業員は雇用主の指示に従わなければならない.雇用主と従業員の間は対等な関係ではなく「権限関係」にある.この権限は労働法上の労働契約の概念による公式の権利である.もちろん雇用主側にもさまざまな義務が生じ,解雇権のように判例によって厳しく制限されている権利もある.他の権利も実質的には無制限に行使できるというわけでもない.さらに従業員にも退職の自由などの権利があることを忘れてはならない.

 ノーベル経済学賞を受賞したサイモンおよびコースは,市場と対比したときの組織の重要な特徴として,雇用関係の根幹にある公式の権限関係に注目した.もちろん市場取引においても対等でない権限関係は成立しうる.明示的な契約を通して買手が売手に一定の権利を与えることもある.しかし,純粋形として市場と組織を両極にとり,現実の多用な取引形態をその間に位置づけるならば,市場を対等な「ヨコ」の関係,組織を権限体系に基づく「タテ」の関係として特徴づけることができる.

 また親と (未成年の) 子供の関係も,親が親権すなわち保護・監督・教育の権利を子供に対して持つ,公式の権限関係である.子供は親の決定を一定の範囲で受け入れなければならない.

 しかし権限関係を基礎に持つ組織において権限の組織下部への委譲が頻繁に見られる.なぜだろうか.

 なぜ決定権を持つ主体は,その権利を組織下部に委譲するのだろうか.権限委譲のメリット・デメリットを考えてみよう.

 「情報を持つ人の手に意思決定の権限を委ねよ.」成功した組織に共通する特徴としてよく語られる原理である.現場の情報・知識が決定に反映されることによって意思決定の質が高まる.権限委譲が意思決定プロセスにもたらす正の効果である.

 組織に有益な情報・知識を持つ現場が組織上部に情報を伝達し,伝達された情報に基づいて集権的に決定すれば,権限委譲と同様の効果が得られるかもしれない.しかしこのような集権的システムにはいくつかの問題がある.第1に,適切な情報が正確に伝達されるか,という問題である.現場の情報・知識の多くは暗黙的なもので,そのままでは組織上部に共有されるのは難しい.第2に,情報がいちいち組織上部に上ってからしか決定ができないことで失われるスピードの問題である.ただし最近の情報技術の発展が決定の遅れを解消する可能性はある.第3に,情報を持つ人が適切な情報を正確に上に伝えるように動機づけなければならない.自分に不利な情報を隠匿・歪曲するような事態が発生することを防がなければならないが,防止策を講ずることによって決定の歪みが生じてしまう.

 「任せることによって人はヤル気を出す.人材が育つ.」これは権限を与えられた者のヤル気へのインセンティブ効果である.自ら決定できるということは,その決定がもたらす可能性のある名声,評判,学習などを自分自身が左右することになる.金銭的報酬をとりあえず無視してもヤル気への影響は強力である.何でも親に決められそれに従うだけの子供と,親からある程度の自由を与えられて,自分自身でどうするかを考えるように強いられる子供との差である.

 しかしヤル気が組織にとって望ましい決定につながるとは限らない.決定を行う人が組織の目的を共有していなければ,彼・彼女の自由な決定は組織にとってベストな決定でない可能性がある.分権経営で知られた会社で,異なる事業部の開発した製品が同じ市場で競合してしまう,という問題が発生することがある.各事業部にとって最善の決定でも,組織全体にとっては必ずしもベストの決定ではない.複数の意思決定の調整の問題である.逆の問題もある.任された者が組織の上層部に迎合しようとして肝心な情報・知識が決定に反映されない,という現象である.ただし問題なのは上層部にとって望ましい決定を行うことではなく,そのために組織に有益な情報・知識が用いられないことの方だ.子供が親を喜ばす決定をすることではなく,そのために自分の興味や知らざれる特技を隠してしまうことが問題なのである.

 前回の議論は,決定を委ねられた人に適切なインセンティブ (誘因) が与えられなければ,権限委譲によるヤル気も情報・知識の利用もから回りすることを示唆する.「任せ,しかし任せっぱなしにしない」ことが大切である.

 権限を委譲すれば決定の帰結に対する責任も負わせなければならない.逆に結果に左右される立場にある者には,その結果に影響を与える決定を委ねる方がよい.専門的なことばでは,権限の委譲と責任とが互いに「補完的」な関係にある,という.経済学入門での「補完財」(たとえばワインとチーズ) の考え方の拡張である.

 部品の設計を任される部品業者に対して,費用の上昇分のうち価格に転嫁できる割合 (シェアリング係数) を低くすれば,業者が費用上昇を押さえる設計を行うインセンティブは強力になる.シェアリング係数が高くて費用上昇の責任を負わされないならば,業者の設計は費用面をあまり考慮しないものになってしまう.一方,部品の設計を調達企業がもっぱら行う場合に強力なインセンティブを与えても,業者の裁量の余地が小さく,費用削減の効果が出ないばかりか,費用上昇のリスクばかりを部品業者に押しつける非効率な契約となってしまう可能性がある.

 親が1日の生活パターンを子供に決めさせるならば,就寝時になっても終わっていない宿題で子供を責めることはできるが,親同士の付き合いのために子供を1日中連れまわしたならば,できていない宿題を責めてはいけない.

 インセンティブを与えて責任を負わせる際に注意すべき点は,何に対する責任を負わせるかである.カンパニー制でカンパニーの長に大幅な事業遂行の権限を与える場合に,その評価基準を何にするか.売上,成長率,利益,収益率.いずれを採択するかでカンパニーの長の決定は変化する.また,もっぱらカンパニーの事業でのみ評価してよいか.前回議論したように,権限を委譲された人の利害が組織の目的から乖離しないようにしなければ,彼・彼女の決定の組織にとっての価値は下がってしまう.しかし,彼・彼女が組織にとって有益な情報・知識を捨てて組織に迎合するようなことにならないような工夫も必要である.カンパニーAの事業とカンパニーBの事業が互いに関連する(競合ないしは補完し合う)ならば,カンパニーAの長に対してAの事業の成果のみに責任を負わせると,組織全体にとってベストな決定を行わなくなる可能性がある.しかし他の事業を意識させすぎると,Aの事業において創造性を発揮することができなくなり,新味のない決定に落ち着いてしまう危険もある.

 これまでの連載では,公式の権限が委譲されるという状況を想定してきた.つまりいったん権限委譲の決定がなされたならばそれは最終的なもので,その決定権が取り消される可能性はないと想定してきた.たとえば会社Aが特定の事業を別会社Bとして独立させ,その株式をAの株主や第三者に分配するケースである.会社AとBの間に親子関係はないので,会社Bの事業に関する決定権は公式にAからBに移行する.

 しかし会社内部の事業部の場合には,事業遂行の権限委譲は絶対的なものではない.本社の意向によって事業部の決定が覆される可能性もある.また別会社化しても会社AとBの間に親子関係があり,AがBの株式の過半数を所有していれば,Bの事業へのAの介入の可能性が残っている.

 親が子供に決定を委ねる場合でも,それは口頭で与えられたものに過ぎず,親が前言撤回することで容易に委譲されたはずの権限は親の手に帰ってくる.

 いいかえれば組織内部で公式に権限を委譲することは難しい.トップはいつでも部下の決定を覆して権限を取り戻すことができるからである.このように決定を覆す可能性を残しておくことに利点もある.組織下部での決定が組織全体の目的から乖離することを防ぐことができるからである.しかし,決定が覆される可能性を予想する部下のヤル気が損なわれてしまう.権限委譲のインセンティブ効果が弱まってしまう.

 現実には分権的経営で知られた会社や企業グループが存在する.社内の事業部やグループの中核企業の子会社に委ねられた決定は,本社や中核企業の意向次第で撤回される可能性がある,という意味で「非公式」な権利である.しかし本社や中核企業は分権的経営を徹底するという評判を築き,事業部や子会社もそのような評判を信頼するからこそ,実質的には自分で決定できると信じてヤル気を出してきたのだろう.

 組織下部に非公式に権限を委譲して実質的な決定を委ね,ヤル気を出させることを追求するためには,組織のトップが介入して決定を覆さないという評判を築けばよい.組織全体の目的からずれた決定がなされることがあっても我慢して見守らなければならない.時々誤った決定をする子供を見守ることで子供の自主性も養われる.

 とはいえこのような非公式な権限委譲は,常に実行可能とは限らない.分権的経営の方が望ましいとはいっても,集権的経営との成果の差がそれほど期待できない場合には,誤った決定を見過ごすことで得られるものは少ない.また,組織下部の決定が頻繁に組織全体の目的から大きく乖離するような場合には,見過ごすことの短期的損失が大きすぎる.これらの状況では,たとえ分権的経営の方が望ましくてもそれを非公式に実行することはできない.

 公式の権限を持つ親は,たとえ子供の決定が家族にとってあまり良いものでないことがわかっていても,介入せずに見守ることによって,子供に実質的な決定を任せ,ヤル気を引き出すことができる.

 しかし望ましくない決定であることをわかっていながら見過ごすことは難しい.ついつい介入してしまう.たとえ長期的には任せることで子供が育つとしても,介入の誘惑に勝つことは大変なことである.

 いっそのこと目をつぶってしまえば誘惑は生まれない.共働きで両親が忙しい子供には,良くも悪くも自主性が育ちやすい.親の目が行き届いている子供と比べると.どういう決定をしているかを観察する機会が少ないから,介入のしようがないのだ.

 組織の場合も同様である.「多角化により事業が追加され,すべて同じようにみることができなくなったトップが権限委譲を行う.」この一見当たり前の主張の裏には,忙しいからこそ部下の決定をいちいち調べることが難しく,実質的な決定権を組織下部に委譲しやすいという面もある.「戦略と事業の分離」のために事業遂行の権限を委譲しても,トップが事業ばかり気にしていてはこの目論見も砂上の城となってしまう.トップが戦略策定に追われることによって,事業遂行の権限委譲も確固たるものとなる.

 また,介入の誘惑が生まれないようなインセンティブ (誘因) をあらかじめに作っておけばよい.連載の中で論じた「権限と責任一体化」は,権限を委譲された者に適切なインセンティブを与えることの重要性についてであった.しかし見方を変えると,決定を委ねられた者が組織全体にとって望ましい決定をするように導くことによって,決定を委ねる側もまた,安心して目をつぶっていられるようになる.つまり,適切な責任を与えることによって,非公式な権限委譲もまた実現しやすくなる.

 会社が事業を切り離し別会社化することも,権限委譲の視点からは過度な介入を控えるためのインセンティブの仕組みとして捉えられる.そして親会社が子会社の所有率を下げ,上場することによって,介入は徐々に難しくなり,実質的な決定を任せることが容易になっていく.

 この連載のテーマは,「権限委譲を進めるには」であった.主に権限委譲が必要な状況を想定していた.しかし,やみくもに何でも権限委譲することが望ましいわけではない.ソニーが本業強化のために一部の上場子会社に対して,NTTがドコモに対して,コントロール権を保持・強化することを評価するためには,よりバランスのとれた議論が必要であることを指摘して,連載を終えることにしよう.