書評: Laffont and Martimort (2002)

伊藤秀史 (一橋大学経済研究所『経済研究』掲載予定)

The Theory of Incentives: The Principal-Agent Model. Princeton University Press, 2002.

本書のタイトルを和訳すると『インセンティブの理論:プリンシパル-エージェント・モデル』となるが,本書がカバーする分野は今日では契約理論 (contract theory) と呼ばれることが多い.契約理論とはゲーム理論や情報の経済学と相互に影響を与えつつパラレルに発展してきた理論分野で,情報の非対称性や立証不可能性により生じるインセンティブの問題を明らかにし,それらを解消するためにはどのような制度を設計することが望ましいかを探る分析手法である.契約理論の有効性はすでに欧米では確立しており,あらゆる経済学の分野で応用研究が行われている.さらに経営戦略,会計制度,政府組織,商法・会社法などへと応用研究は広がっている.

ただしゲーム理論や情報の経済学との境界が不鮮明であるため,Journal of Economic Literature の分類システムには契約理論に対応するコードはなく,また契約理論,インセンティブ,プリンシパル-エージェントという用語自体も現れていない状況である.しかしその一方で,たとえばエコノメトリック・ソサエティ (Econometric Society)が5年に1度開催する世界大会(World Congress)の第8回大会 (2000年8月11-16日,シアトルのワシントン大学にて) では,84名のプログラム委員中9名が契約理論を専門に掲げている.

本書は契約理論の分野に特化しある程度包括的にカバーする最新の教科書である (なお評者が執筆した日本語の教科書が遅くとも2003年前半までに有斐閣から出版される予定である).これまで利用可能な同様の教科書である Salanie (1997) および Macho-Stadler and Perez-Castrillo (2001, First Edition は 1997) と比べて,本書はいくつかの点で独特の性格を有している.

まずなによりもその量である.本書自身が Salanie (1997) および Macho-Stadler and Perez-Castrillo (2001) を上回るページ数であるということよりも,そもそも本書が3分冊の第1冊目であるというから恐れ入る.日本の出版業界では考えられない企画であろう.目次を見て「何だ,プリンシパルひとり,エージェントひとりの基本モデルだけじゃないか」と早合点してはいけない.複数エージェントの理論は第2冊目,複数プリンシパル,ダイナミクス,不完備契約,暗黙のインセンティブ等は第3冊目の担当なのである.

第1冊目の本書は基本的なプリンシパル-エージェント・モデルの解説に集中しているので,基本モデルの分析手順と背景にある論理のみならず,基本モデルのバリエーションと拡張についても非常に丁寧に説明している.たとえば事前の参加制約と事後の参加制約,追加情報の効果,確率的メカニズム,2次元のタイプ空間,確率的な参加制約,タイプに依存した参加制約,マルチタスクなどがカバーされている.これらのトピックの多くは,他の教科書ではページ数の制約の関係で省略されるかごく簡単に触れられるのみであることと対照的である.また基本モデルの説明も多くの図を用いながら非常にゆったりと進められる.アドバース・セレクションではタイプが2種類,モラル・ハザードでは努力水準と成果がいずれも2種類のケースに限定して,多彩なバリエーションと拡張を統一的に説明しようとする試みは評価すべきだし,かなり成功していると思う.

ただし気になる点も少なくない,第1に数式も非常に多いし細かいところを気にしすぎて説明が冗長に感じられるところも少なくない.第2にマルチタスク・モデルを離散変数のモデルで説明しているのは他の箇所との統一性を重視したためと思われるが,オリジナルの Holmstrom and Milgrom (1991) や組織の経済学の教科書 Milgrom and Roberts (1992) と同様に,正規分布モデルと線形契約の仮定を用いて説明した方がわかりやすいと思う.そして第3にアドバース・セレクションとモラル・ハザードの扱いは必ずしも対等ではないように感じる.アドバース・セレクションの基本の章 (第2章) ではタイプが2種類のケースに限定し8種類の工夫されたグラフを用いて説明している一方,モラル・ハザードの基本の章 (第4章) ではその大部分で努力と成果が2種類のケースを扱いながらグラフは全く用いられていない.仕事のほとんどがアドバース・セレクションの分野である著者たちと,もっぱらモラル・ハザードの分野で仕事をしている評者との間の見解の相違を超えた非対称性があると思う.

本書の第2の特徴は,アドバース・セレクション (隠された知識) とモラル・ハザード (隠された行動) という非対称情報のスタンダードな2本柱に加えて,立証不可能性を第3の柱としている点である.立証不可能性は,第3冊目で展開されるはずの不完備契約の理論の準備のために用意されていることは明らかであるが,最近の不完備契約の基礎付けの研究では,対称情報下の遂行理論(implementation theory)への理解が欠かせない.ナッシュ均衡による遂行とマスキンの単調性条件および部分ゲーム完全均衡による遂行などは,既存の契約理論の教科書では扱われないトピックであるが,本書は立証不可能性という柱の下で,これらのトピックを詳しくカバーしている.不完備契約の基礎について興味はあるが,遂行理論を経済環境のセッティングで学習することに躊躇する学生にとっては大変ありがたい特徴であろう.

第3の特徴として本書第1章を紹介しておこう.「経済思想におけるインセンティブ」と名付けられたこの章は,歴史上の社会科学者が語るインセンティブについての引用を集めた楽しい章である.Adam Smith に始まり,Hume,Wicksell,Groves,Borda,Bowen,Vickrey, Walras,Knight,Arrow,Pauly,Pigou,Lerner,Hurwiczなどが登場するが,とりわけ評者が興味深く感じたのは,今日の経営学の出発点を築いたChester Barnard からの多くの引用である.

著者たちによると「本書の目的は経済学を専攻する学部生および大学院の1年生が,インセンティブ理論を容易に学習できるようにすること」にあるが,学部生には (★で示されるテクニカルな部分を除いたとしても) やや難しいかもしれない.むしろ意欲のある学生が自習用として用いるか,少人数のゼミナール等でじっくり輪読するため用いるのがよいと思う.大学院生のための授業で利用する場合でも,教科書に指定するよりは参考書にとどめることを推薦する.教科書には契約理論の分野を簡潔に展望する Salanie (1997) 等を指定して,基本モデルの講義の際に本書を参照すると使いやすいだろう.本書が契約理論への参入をいっそう促すことを期待したい.

参考文献

Bengt Holmstrom and Paul Milgrom (1991) ``Multitask Principal-Agent Analyses: Incentive Contracts, Asset Ownership, and Job Design,'' Journal of Law, Economics and Organization, Vol. 7, Special Issue, pp. 24-52.

Ines Macho-Stadler and David Perez-Castrillo (2001) An Introduction to the Economics of Information: Incentives and Contracts Second Edition, Oxford: Oxford University Press.

Paul Milgrom and John Roberts (1992) Economics, Organization and Management, Englewood Cliffs, NJ: Prentice-Hall. 奥野正寛ほか訳『組織の経済学』NTT出版,1997.

Bernard Salanie (1997) The Economics of Contracts: A Primer, Cambridge, Mass.: The MIT Press.