ミクロ経済学のいま:自由放任からインセンティブ設計へ

伊藤秀史 (経済セミナー2000年3月号掲載)

今日経済学者は,自分たちの研究分野をより広く定義できる.あらゆる社会制度におけるインセンティブの分析,と.Roger Myerson (注1)

流行語「モラル・ハザード」

Y2K (西暦2000年) を迎え,すでに遠い過去の記憶となりつつあるかもしれませんが,1998年の流行語トップテンのひとつに「モラル・ハザード (moral hazard)」というのがありました (注2).新聞等では「金融機関のモラル・ハザード」という組み合わせで使われることの多いこの用語は,もともとは経済学の専門用語です.80年代後半以降に出版されたミクロ経済学の教科書ならば,入門書でも説明されていると思います.ただし教科書のかなり後ろの方にですが.

銀行が預金の払い戻しなどができなくなる経営困難に陥っても,銀行の代わりに支払いを提供してくれる公的な機構があります.多くの金融商品はこのように元本が保証されています.また,公的当局は「護送船団方式」というフレーズに代表されるように,比較的最近までは自力再建の困難な金融機関を救済して,倒産が発生しないようにする方針をとってきました.このような仕組みの下では,銀行による倒産リスクを押さえようとする努力は弱まってしまいます.これが「金融機関のモラル・ハザード」です.もっとも,私たち預金者にとっても元本が保証されるわけですから,銀行の経営状態や預金がどのように使われているかを一生懸命調べ,どこの銀行に預けるかに頭を使う意欲は失われてしまいます.だから,「預金者のモラル・ハザード」であるともいえます.

このモラル・ハザードという考え方は,さまざまな現象に適用できます.もともとは保険のもたらすマイナスの効果に対して使われました.医療保険のおかげで,病院に行っても費用の大部分を支払う必要がありません.その結果,保険に加入していない場合と比べて,健康への注意が散漫になったり,たいした症状でもないのに病院に行く人が増えて医療の濫用が起こってしまいます.もっと一般的には,モラル・ハザードとは「自己の利益を追求する行動が,社会全体にとって望ましくなくなる状態」のことです.金融機関のモラル・ハザードの例で,経営危機に陥った銀行を救済することには,金融システム全体の混乱を避け,行員の雇用を確保して,経済全体にプラスの効果をもたらす面もあります.いざ銀行の破綻が明らかになれば,このような救済措置を講ずることの正当性を否定することはなかなかできません.しかし,救済を予想するがために,破綻に至る前の銀行の行動が期待されているものからかけ離れていく危険があるわけです.

インセンティブ設計という見方

「だから自己利益の追求が悪い」というのがここでの教訓ではありません.まずそもそも,各人が自分勝手に利己的に行動した結果,社会的にも望ましい状態に落ち着く,という可能性があります.実はこれがスタンダードなミクロ経済学の入門書の前半5分の3くらいまでで説明されている「完全競争市場」の世界なのです (注3).「厚生経済学の第1定理」と呼ばれている結果です.したがってこの世界での教訓は「自由放任」ということになります.しかし,この幸福な世界を現実世界につくりだすのは相当困難です.

第2に,モラル・ハザードが発生するとしても,自己利益を追求する銀行をけなすのは的外れです.銀行だって会社です.利益をあげることが目的です.むしろここで検討すべきは,「護送船団方式」や「元本保証主義」といった,銀行が相撲を取っている土俵・ルールの方です.これらの仕組みの中で利益をあげようとする銀行の行動が,モラル・ハザードを引き起こしたのです.

実はミクロ経済学の最先端でのモラル・ハザードの分析は,「社会的に望ましくない状態に導く行動」の可能性を明らかにすることで終わるのでなく,そこからはじまるのです.完全競争市場でのように放っておいても問題は解消しません.銀行がモラル・ハザードに陥らないような土俵・ルールつくりを考える必要があるのです.土俵・ルールを変えれば銀行の行動も変化します.これを研究者は「インセンティブ」という用語を使って議論します.インセンティブは「誘因」と訳されることが多いですが,英和辞書には「刺激」「人を行動へ誘うもの」というような訳語が見つかるでしょう.「護送船団方式」や「元本保証主義」といった「アメ」が,金融機関をモラル・ハザードという誤った行動へ誘ってしまったのです.では,逆にこれらのルールを全部撤廃してしまうとどうなるでしょうか.銀行は経営破綻を回避するために死にもの狂いで努力するインセンティブに直面します.しかしそのような「ムチ」の結果,金融機関の行動はものすごく保守的になってしまい,新しいサービス・商品の開発は逆にこれまで以上に期待できなくなるかもしれません.また,よい経営をしていても景気や他の銀行にはどうしようもない理由で一時的に支払いが難しくなるかもしれません.そんな場合にも当局が一切サポートしなければ,経済全体の混乱にも結びつきかねません.だから,「アメ」と「ムチ」をうまくバランスさせて「最適なインセンティブ」をつくりだすという問題を解かなければなりません.

ここで注意すべきことは,銀行の行動を完全に把握することは難しい,という点です.もしも銀行の決定・行動をいつも完全に,何のコストもかけずに知りうるのならば,インセンティブ設計の問題は自明になります.「よい経営」と「悪い経営」を正確に把握できるならば,「よい経営が行われていながら,不幸にも経営困難に陥ったならば,そのときのみ救済する」といったルールを確立すればよいからです.しかし,銀行の経営を正確に把握することは不可能か,可能でも高くつきすぎます.このようにモラル・ハザードには,当事者の間で行動についての情報が完全に共有されていないという前提条件があります.この条件は「情報の非対称性」と呼ばれます.この点を強調して,モラル・ハザードを「隠された行動」と呼ぶこともあります.こうして今日のミクロ経済学の適用範囲の広い問題設定のひとつは,「情報の非対称性の下で,適切な行動に導く最適なインセンティブを設計すること」として与えられるのです.

なぜこのエッセイを書いたか

ノーベル経済学賞を3名のゲーム理論家が受賞した2年後の1996年,2人経済学者がノーベル経済学賞を受賞しました.ビル・ヴィックレー (William Vickrey) とジム・マーリーズ (James Mirrlees) です (注4).アカデミクスを飛び出して一般に知られつつあるゲーム理論の話題の中で,彼らの受賞や内容に触れられることはめったにないようです.ゲーム理論とはあまり関係ない受賞であるかのような扱いを受けることもあります.彼らの受賞理由は「非対称情報の下でのインセンティブの経済理論に対するファンダメンタルな貢献」です.そう,このエッセイで紹介した「インセンティブ設計」の視点は,彼らの研究のおかげで多くの分野に適用されるようになったのです.今日ではインセンティブ設計の問題はゲーム理論の手法で分析されます.「単なるゲーム理論の応用一分野」といいきる学者がいるかもしれません.しかしヴィックレーとマーリーズの研究は,新しいゲーム理論が統一的な手法として確立し,経済学のさまざまな分野で応用されるようになる以前に行われました.彼らの深い洞察が,ゲーム理論がミクロ経済学の主流の理論として広がるのを後押ししたという面もあるのです.

ゲーム理論の華々しさと比較すると,彼らの貢献は玄人受けするシブイものなのですが,その大切さをちょこっとだけ知ってもらいたい,それがこのエッセイを私が書いた本当の理由なのです.

1) Myerson, Roger B., ``Nash Equilibrium and the History of Economic Theory,'' Journal of Economic Literature 37 (1999), 1067-1082. 引用個所は1068ページ.

2) 「リベンジ」などの前年,「だっちゅーの」などが流行語大賞を受賞した年です.

3) 本誌で連載された梶井厚志・松井彰彦「ミクロ経済学――戦略的アプローチ」1998.4-1999.?? は,この世界の紹介を後半に持ってくるという点で注目に値する例外です.

4) ``The Nobel Memorial Prize in Economics 1996: Press Release from the Royal Swedish Academy of Sciences,'' Scandinavian Journal of Economics 99 (1997), 173-177.