組織とインセンティブ設計の経済分析を豊かなものとするために

伊藤秀史 (経済セミナー2004年3月号,特集/経済学と心理学)

契約理論---インセンティブ設計の視点

最近,経済学では「インセンティブ」というコトバがキーワードとして伸してきています.「インセンティブ」とは「やる気を起こさせるもの」「アメの期待とムチの恐れとを与えて,人を行動へと駆り立てるもの」という意味です.人間の選択を分析することに本質がある経済学では,何が人をその選択へと導いたのか,すなわち選択の背景にあるインセンティブを明らかにすることは,中心的課題であるといってよいでしょう.人の行動を望ましくない方向に導くインセンティブを明らかにし,適切なインセンティブを「設計」するという「インセンティブ設計」の問題を明示的に扱っている理論が,「現代の応用ミクロ分析の3本柱となる理論のひとつ」と呼ばれることも (たまに) ある契約理論 (contract theory) です (注1) .他の2つの理論 (価格理論とゲーム理論) と比べると相当地味でマイナーですが.

インセンティブ設計の問題は,典型的にはプリンシパル・エージェント関係の枠組みで分析されます.プリンシパルは,インセンティブの問題を解消するための仕組みを設計する立場の経済主体,エージェントは,プリンシパルがインセンティブの設計を通してその行動をコントロールしようとする対象である主体です.思いつくままに例をあげると,株主と経営者,債権者と経営者,上司と部下,親会社と子会社,規制当局と規制下の企業,保険会社と保険加入者などです.この分析枠組みでインセンティブ問題が発生する主な理由は,プリンシパルとエージェントの間に利害の不一致があるからです.そのために,経済学において標準的な仮定,すなわちエージェントは自己利益のみを追求する (完全利己主義の) 経済主体である,という仮定がおかれます.

契約理論の応用---組織の経済学

契約理論はさまざまな分野に応用されていますが,本稿では組織の分析への応用に注目します.さまざまな意思決定が委譲されなければならない組織においては,「任せて,しかし任せっぱなしにしない」ための制度づくりは,組織のパフォーマンスを決定する重要な課題であり,インセンティブ設計の視点に立つ契約理論に依拠した分析が盛んな分野です.

組織の経済分析の代表的な教科書に次のような記述があります (注2) .「われわれは...人間が内在的な動機によって行動する可能性を認めるものの,人間が狭い利己的な関心によって動機づけられており,それぞれの目標を小賢しく追求しようとするとともに,私利の追求にあたってはしばしば無節操だという考え方によって多くの制度や事業業務が説明できると考える.」経済学に慣れている人々にとって特に目新しい記述ではないでしょう.利己的な人間の合理的意思決定を前提とした組織の経済分析は,これまで大きな成果を上げてきました.しかし,経済学以外 (心理学,社会学など) のアプローチをとる標準的な組織論の研究者にとって,この前提はとうてい受け入れられないようです.たとえばある組織研究者は,組織の経済分析の批判的検討のために教科書の1章を割いて,次のように述べています (注3) .「自分の利害を考えて行動するのか,それとも他者の利害を考えて行動するのかについて,人間には生まれながらの傾向というのものはない.組織構造に応じてどちらの行動も表れてくる.エージェンシー理論の研究者は...組織に存在する (そして組織がうまく機能するために存在しなければならない) 非常に多くの中立的もしくは他者の利害を考える行動を無視し,そのような行動を促進する組織構造を無視している.」このような分析の前提での対立のために,同じ組織を分析対象とする研究者間の学際的な研究は進みませんでした.

行動経済学の成果を組織の経済分析に取り入れることによって,この現状を打破するきっかけが生まれると私は考えます.行動経済学は,心理学等からの洞察に基づいて経済学の仮定を緩め,理論を拡張しようとするアプローチです.心理学や経済学での実験やフィールド調査の結果,経済分析で通常仮定される前提は,必ずしも行動学的証拠によって支持されないことがわかってきました.たとえば完全利己主義については,単純なゲームの実験を通して多くの反証があげられています.そこで完全利己主義の仮定を緩め,利他的動機や互恵性の性質を取り入れた意思決定の理論モデルを構築する試みが,最近盛んに行われています.それらのモデルの多くは,広範な実験結果をうまく説明することができるという強みを持っています (注4)

行動契約理論

組織の分析への応用のためには,このような意思決定の理論モデルを組織の経済学の基礎理論である契約理論に取り入れて,インセンティブ設計の問題を再考する必要があります.そのような研究分野は行動契約理論 (behavioral contract theory) と呼ぶことができるでしょう.しかし,直ちに次の批判が聞こえてきそうです.「インセンティブ問題が発生するのは,プリンシパルとエージェントの間に利害不一致があるからであり,エージェントが狭い利己的な関心によって動機づけられているという仮定を緩めると,インセンティブ設計の問題は自明なものとなるのではないか.」確かにエージェントが純粋に利他主義的でプリンシパルの利害のみに関心を持つならば,プリンシパルはエージェントを規律づける必要がありません.「任せて,しかも任せっぱなしにする」ことがベストとなります.

しかし多くの実験結果は純粋利他主義のみでは説明できません.利己主義と首尾一貫した行動も観察されます.その結果,条件付き利他主義や互恵性に基づく意思決定モデルの方が,より多様な実験結果を説明できると考えられています.もっとも単純な (しかし説明力の大きい) モデルは,各個人の効用関数を次の2種類の項の和の形で定式化します. (a) 自分の利得 (所得,消費等) からの直接の効用 (b) 自分の利得に対する相手の相対的な利得からの効用.さらに相手に対する関心を表す (b) は,相手の利得と自分の利得の差が大きいほど効用が下がる,という特徴を持ちます.相手の方が利得が高ければ相手を羨望し相手に追いつくことを選好し,逆に自分の方が利得が高ければ利他的にその差を縮めることを選好します.このような選好は不衡平回避 (inequity averse) と呼ばれます (注5)

エージェントが不衡平回避の選好を持つことは,実はインセンティブ設計を行うプリンシパルにとって必ずしも望ましいことではありません.このことを簡単な例で説明しましょう.エージェントのとる行動は a0 と a1 の2種類で,a0 を選べばプロジェクトは必ず失敗して利益ゼロ,a1 を選べばプロジェクトは成功して利益 100 (万円) がプリンシパルにもたらされます.しかし行動 a1 を選ぶことによって,エージェントは機会費用 20 (万円) を負担します.エージェントが選ぶ行動をプリンシパルは観察できませんが,プロジェクトの成否に応じたボーナスを設計し強制できると仮定しましょう.すなわちプリンシパルは「プロジェクトが成功すればボーナス w を支払うという」という契約を提示します (失敗のときには利益ゼロですから,報酬もゼロと仮定します).したがって,プロジェクトが成功したときのプリンシパルの利得は 100 - w,エージェントの利得は w - 20 です.

プリンシパル エージェント
(純粋利己的) (w ≦ 50) (w ≧ 50)
a0 (失敗) 0 0 0 0
a1 (成功) 100 - w w - 20 w - 20 - α (100 - 2 w) w - 20 - β (2 w - 100)

まずエージェントが純粋利己主義のケースを分析します.エージェントに行動 a1 を選ばせるためには,プロジェクトが成功したときのエージェントの利得 w - 20 が,失敗したときの利得 0 以上となる必要があります.プリンシパルはこの制約の下でできるだけ w を低くしたいので,w = 20 が最適なボーナスです.よってプリンシパルの利得は 100 - 20 = 80 となります.

次にエージェントが不衡平回避の選好を持つケースを考察しましょう.エージェントはプロジェクトが成功したときの報酬 w を,プリンシパルの手に入れる利益 100 - w と比較すると仮定します.もしも w < 50 ならば,プロジェクトが成功したときにはプリンシパルの利益の方が大きく,w > 50 ならばエージェントの報酬の方が大きくなります.よってエージェントの効用は表のようになります (α,β は非負の定数です).プリンシパルはエージェントに a1 を選ばせ,かつ w をできるだけ低くしたいと考えています.実際 w = 50 のときにエージェントの効用は w - 20 =30 > 0 で a1 を選択してくれますから,ボーナスを 50 万円よりも下げることができます.このときのエージェントの効用は w - 20 -α(100 - 2 w) ですから,この値がゼロと等しくなる水準でボーナスが決まります.しかしこのボーナスは 20 万円よりも高くなります (w = 20 ではエージェントの効用は負になってしまいます).さらに,α が大きい,すなわちプリンシパルの利益と自分の報酬との差により敏感なエージェントほど,a1 を選ばせるために必要なボーナスは高くなってしまうことも分かります.理由は単純で,プロジェクトが成功するとエージェントは不衡平な分配を気にして効用を下げてしまうので,a1 を選ばせることが難しくなるからです.分析結果は,組織構造が組織のメンバーの選好に影響を与えるとしても,利己主義から離れていくことで組織が必ずしもうまく機能するようにはならないことを示唆しています (注6)

おわりに

本稿では行動契約理論の分析例として,完全利己主義の仮定に焦点を当てました.経済学で標準的な他の仮定を緩めることによって,さらに多くの示唆が得られ,組織の研究がより豊かなものになっていくことでしょう.

1) 日本語で読める契約理論の教科書には,ベルナール・サラニエ『契約の経済学』勁草書房 (2000),伊藤秀史『契約の経済理論』有斐閣 (2003) がありますが,いずれも大学院レベルの教科書です.伊藤秀史+小佐野広『インセンティブ設計の経済学』勁草書房 (2003) は,さまざまな経済問題への契約理論の応用分析を展望しています.

2) ポール・ミルグロム+ジョン・ロバーツ『組織の経済学』NTT出版 (1997),45ページ.

3) Charles Perrow,Complex Organizations: A Critical Essay, Third Edition. Random House (1986), pp. 234--235.

4) 詳しくは,たとえばColin F. Camerer, Behavioral Game Theory. Princeton University Press (2003) を参照して下さい.

5) 自分の利得を x,相手の利得を y とすると,U(x,y) = x - α max {y - x, 0} - β max {x - y, 0} となります.ここで α,β は非負の定数です.Ernst Fehr and Klaus M. Schmidt, ``A Theory of Fairness, Competition, and Cooperation,'' Quarterly Journal of Economics 114 (1999), pp.817--868.

6) 以上の分析は,次の論文の成果の一部を簡単化して紹介したものです.Hideshi Itoh, ``Moral Hazard and Other-Regarding Preferences,'' forthcoming in Japanese Economic Review.