「私のこの一冊」

伊藤秀史 (『一橋ビジネスレビュー』2011年秋号所収)

トーマス・シェリング『紛争の戦略――ゲーム理論のエッセンス』 河野勝監訳,勁草書房,定価3,800円+税

今から30年くらい前に大学生だった僕は,知的好奇心がわく授業を所属する学部にはみいだせず,当時は数理的で完全にオタクの学問だった「ゲーム理論」と地味に格闘していた.一方,知的好奇心を満たす数少ない場であったゼミナールでは,出版されたばかりのポーター『競争の戦略』を原書で輪読していた.その本の中に,競合企業に対する自社のポジションを高めたり競合企業の行動を抑止するために,コミットメントや威嚇を戦略的に活用する方法について論ずる章があった.そこでポーターが影響を受け,参照していたのが本書である.これが僕と本書との出会いであり,この本(当時は原書のみ)と格闘しながら卒業論文を書くまでに入れ込んでしまった.

難解な本のような印象を与えたかもしれないが,日常生活での場面を含む豊富な事例にふれながら,交渉,コミットメント,威嚇,約束,瀬戸際戦略といった戦略的行動の深い理解をめざす,楽しく読める本である.国際政治の例が多いがビジネスの事例に当てはめることも容易にできる.著者の数学を用いない,しかし示唆に富む深い分析は,当時の数理的なゲーム理論の何歩か先を行っていた.彼の研究成果が十分認知された今日でさえ,シェリングを2005年ノーベル経済学賞に導いた本書の着眼点は重要である.

通常のゲーム理論的分析では,複数の主体の決定が絡み合う状況をゲームとして定義し,そのゲームの解(たとえばナッシュ均衡)の特徴を調べる.多くの分析はこれで終わりだが,シェリングの興味はむしろここから先で,自分にとって望ましい方向に「ゲームを変える」戦略的行動にある.彼の分析は,自分の選択肢をなくしたり偶然に委ねることが有利になったり,「合理的」に行動できたりコミュニケーションができることが不利になったりする,一見逆説的な結果の論理を明らかにしてくれる.

本書のタイトルは『紛争の戦略』だが,利害対立のない状況についても重要な分析を行っている.携帯も持たずにデパートではぐれた夫婦が互いに相手をみつけようとする状況では,目的は一致しているが,単に相手がどこに行くかを予想するだけでは再会できない.相手は自分がどこに行くと予想しているか,そのことを自分はどう予想するか,という予想の連鎖に陥ってしまう.このように利害対立のない「調整ゲーム」で,みんなの予想をうまく調整し収束させる原理を,シェリングは教えてくれる.ボストン・コンサルティング日本代表の御立尚資氏はある対談で,企業経営者でも「囚人のジレンマ」くらいは知っているがそこで知識が止まっていると語っていた.企業経営者には,少なくとももうひとつ,シェリングの「調整ゲーム」を勉強してもらう必要があるだろう.