インセンティブ理論で日本企業を解剖する

伊藤秀史 (『週刊ダイヤモンド』1996年11月2日号)

最近の経済学のキー・ワードのひとつとして,「インセンティブ (incentive)」という単語を掲げることができる.手近にある英和辞典で incentive を引いてみてほしい.「誘因」「刺激」「動機」といった訳語が載っていることだろう.インセンティブとは,「アメの期待とムチの恐れとを与えて,人を行動へ誘うもの」である.

私たちの経済において,何が人々や企業を行動へ誘うのだろうか.法律のようなムチの働きも無視できないだろう.しかし,健全に機能する市場経済では,人々にとって所得,企業にとって利潤を享受する機会が,アメとして重要なインセンティブを与えている.別の見方をすれば,財を所有し,財の生み出す利益を留保できる私的財産の権利が与えられたときにはじめて,経済主体にインセンティブがもたらされる.

伝統的な経済学が描く世界 (完全競争市場) では,所有権を確立しておけば,それ以上に個々の経済主体のインセンティブを考慮する必要はなかった.なぜならば,利己的な経済主体の自由放任が,アダム・スミスの「見えざる手」によって,また社会的にも望ましい (効率的な) 状態に導くという,幸福な関係が成立していたからである.もちろん現実の経済の多くは,そのような理想的な世界からは程遠い.しかし経済学は長い間,完全競争市場の仮定が成立しない世界を統一的に分析するための枠組みを持たなかった.現代の経済学においてインセンティブがキー・ワードとなってきたのは,経済学が現実のより複雑な取引形態や企業の内部組織といった,完全競争市場とは異なる世界を分析するための一般的な方法を見出したからである.すなわち,ゲーム理論,情報の経済学,契約理論等の発展によって,経済学の可能な分析範囲は飛躍的に広がったのである.

理想的でない経済においては,自由放任主義は必ずしも効率性を達成するとは限らない.経済主体の自由な取引に身を委ねても,社会的に望ましい状態にたどり着く保証はないのである.したがって,経済主体を適切な行動に誘うインセンティブを生み出すには,どのような制度を設計しなければならないか,という問題を解かねばならなくなる.たとえば,従業員の潜在的能力や仕事ぶりに関する情報を収集しながら,従業員が企業の目的に沿った意思決定を行うインセンティブを与えるには,どのような人事制度にすればよいのだろうか.サプライヤーがメーカーの製品に適合するカスタム部品を設計し,コスト削減,品質管理を行い,計画どおりに納品するように動機づけるためには,どのような管理システムを構築すればよいのだろうか.パソコンのハードウェアの会社とソフトウェアの会社がジョイント・ベンチャーを組んで特定のプロジェクトを共同で行うとき,両社がプロジェクトの成功を目指して協力するインセンティブは,いかなる契約を締結することでもたらされるのだろうか.これらの問題は,いずれもインセンティブの設計という観点から分析することができる.

かつては日本企業の諸制度を分析する研究者は,経済学者をも含めて「日本人の伝統的な仕事観,勤勉を尊ぶ文化のゆえに,インセンティブの問題は重要でない」と主張することも珍しくはなかった.もちろんインセンティブの論理に依拠しない重要な分析もあれば,インセンティブ機能は重要でない制度も存在しよう.しかし,今日では一般的に,「日本における企業組織や取引上の特徴の多くは,インセンティブを設計する,という観点から整合的に理解できる」という考え方への合意が形成されつつある.以下ではインセンティブ設計の視点でおそらくもっとも重要かつ基本的な「インセンティブ対リスク分担」の原理を,日本企業の特徴を例として挙げながら紹介することにしよう.

自動車メーカーと部品サプライヤーの関係を考えてみよう.一般にサプライヤーはメーカーよりも規模が小さく,メーカーとの取引への依存度が高い.したがって,リスクを分担する,という観点からは自動車メーカーがすべてのリスクを吸収することが望ましい.たとえば部品の原材料費の値上げは,部品サプライヤーにはどうしようもない不確実性の結果である.この時,メーカーは費用の上昇分を部品の価格に上乗せすることを認めるべきである.また逆に原材料費が下がれば,部品の価格もそれに応じて値下げさせ,部品の価格が原価に一定額を加えた水準に保たれるようにすることが望ましい.実際,サプライヤーには制御できない要因によって利益が上下することは,サプライヤーにとって明らかにフェアではない.さらに,このようにしてサプライヤーの利益を一定にしてリスクを吸収する代わりに,メーカーはサプライヤーの部品価格から,一定の保険プレミアムを差し引いて価格を低く押さえることができる.

しかしこのような「コスト・プラス」契約では,サプライヤーが部品の費用削減に努力するインセンティブはなくなってしまう.費用削減に成功した場合のアメも,失敗して費用が上昇した場合のムチも与えられないからである.逆に「固定価格」契約によって実際の製造費用に関わらず一定の価格で取引すれば,費用削減の恩恵はすべてサプライヤーの手に入るので,強力な努力インセンティブが与えられる.しかし,今度は逆にサプライヤーは,自らは制御できない要因によって生じる費用変動のリスクをすべて負担しなければならなくなるので,十分に高い部品価格でないと,そのような契約を受け入れなくなる.メーカーとサプライヤーにとって最適なインセンティブの強度は,インセンティブとリスク分担の費用便益をバランスさせたところで決まる.

日本のメーカー・サプライヤー関係は,このようなインセンティブとリスク分担の観点から理解することができる.とりわけ,インセンティブの視点と整合的に,開発に関与して設計図を自ら描くような,規模が大きく技術水準の高いサプライヤーほど多くのリスクを負担する,という関係が成立することが知られている.言い換えれば,零細サプライヤーのリスクの大部分はメーカーによって負担されており,「弱小サプライヤーを搾取する」という表現は的確なものではない.

同様の視点で会社内の給与体系を考察することもできる.日本企業の給与はよく「積み上げ型」と呼ばれる.従業員の企業への (プラスおよびマイナスの) 貢献に対するアメとムチは,一時的なものではなく,将来にわたって影響が持続するものである.すなわち,ある年度の優れた業績が直ちに次年度の昇進・昇格に反映されるというものではないし,過去の貢献は同じ会社にとどまる限り,長期間にわたってその従業員の処遇に影響を与え続ける.「出世はよい査定の積み重ね」の結果なのである.

一見インセンティブの視点では,このような一筋縄ではいかない報酬形態よりも,年俸制やボーナスのように業績を直ちにかつ一時的に反映させた方が単純かつ効果的であるように思われるかもしれない.しかし,このような一時的報酬は,従業員を大きなリスクに直面させることになる.ある年度の優れた業績の見返りを次の年度に集中して与えてしまうと,その次の年度の所得が大きく変動するリスクが生じる.たとえ従業員が同じように仕事をこなしていても,彼・彼女に制御できない要因によって,2年後の所得が大きく減少することが起こり得るからのである.この結果,制度の公平感が失われ,会社は平均的に十分高い給与を支払うことが必要になる.一方,会社が従業員のリスクを負担する役割を担い,ある年度の優れた業績の見返りは次年度以降の長期間にわたって給与のベースアップという形で分散してしまえば,従業員のリスク負担は軽減され,会社は平均的給与水準を下げて人件費を節約することができる.その結果,ある年度の従業員の給与は,それ以前の評価の見返りを少しずつ反映することになる.

積み上げ型が望ましいか,一時的報酬が望ましいかは,いくつかの要因に依存する.個々の従業員の貢献度を正確に測ることができなければ,一時的報酬は難しい.積み上げ型にして,徐々に従業員の業績・能力についての情報を蓄積していく方がよい.また,すでに会社に長く勤務しており,退職までの期間の短い従業員の場合は,積み上げ型にするメリットは小さい.さらに会社の重役陣の場合は,上記の両方の理由で一時的報酬が望ましい.会社の業績が彼らの貢献度と直接的に結びついており,測定が容易である.さらに彼らの業績・能力についての情報はすでに十分蓄積されているからである.

長期雇用,内部昇進といった日本企業の人的資源のマネジメント上の特徴もまた,積み上げ型の報酬体系をサポートしている.これらの特徴は,労働者が新卒で採用されてから退職するまで,同一の会社にとどまる可能性を高め,その結果積み上げ型報酬を実行可能にしているからである.

最後の例として,会社の昇進制度を考えてみよう.昇進が何によって決まるか,どの程度のスピードで,どの位従業員間の処遇の差をつけるか,などによって,従業員に与えられるインセンティブは大きく変化する.会社内の出世競争は,オリンピックやテニスに見られるような「勝ち抜きトーナメント」の側面を持っていることが知られている.各選抜段階で昇進できなければ,その先の昇進の可能性はない.しかし,各段階で生き残っても,その後の昇進が保証されるわけでもない.出世するためには各段階で勝ち続けなければならないのである.

昇進することで給与が上がり,よりやりがいのある仕事を任され,従業員の満足度は一般に上昇するだろう.昇進した場合としない場合の処遇と満足の差が大きいほど,インセンティブは強力になる.ここで注意すべきことは,勝ち抜きトーナメントにおいては,昇進することで得られる「褒賞」は単に次の役職や資格に付くことで得られる満足のみではないことである.より重要な褒賞は,昇進することで,次の昇進競争に参加する権利が得られることである.したがって,勝ち抜きトーナメント制度の下では,昇進の各段階において,非常に強力なインセンティブが与えられているのである.この後者の褒賞は,上位の役職に到達するほど弱くなるので,逆に前者の褒賞の効果を徐々に大きくしていく必要がある.これが,会社の上位ほど役職間の処遇の相違が大きくなる理由のひとつと考えられる.

しかし逆に勝ち抜きトーナメントによって,従業員は大きなリスクにさらされることになる.一度失敗して遅れると,追いつくのは至難のわざである.この結果,従業員の行動が過度に保守的になり,大きな成果をあげることよりも失敗をしないことばかり気にして会社が活性化しなくなる弊害も生じうる.やはりインセンティブとリスク分担の微妙なバランスが重要なのである.

このようにもっとも単純な原理でも,日本企業を解剖するメスのひとつとなりうることに納得いただけただろうか.「最近の新入社員は個人主義的すぎる」「部品サプライヤーのメーカー離れはけしからん」と憤慨していても得られるものは少ない.現在の制度が従業員やサプライヤーにどのような行動インセンティブを与えているのか,望ましい行動を引き出すためにはどのよな制度を設計すればよいのか,を常に問い続けることが大切である.現代の経済学は,インセンティブの理論によって,ようやくこれらの設問に少しは答えられるようになってきた.